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故事族推理2021年05期 · 十津川刑事の肖像 (双葉文庫) 第4部分 · 第4篇 / 共12篇 · 33%
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十津川刑事の肖像 (双葉文庫) 第4部分

作者:西村京太郎 分类:故事族·推理
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「昨日は、私どもの生命保険にご加入いただきましてありがとうございます」

「何だって?」

「そちらは、酒井忠ただ夫お様ですね?」

「そうだが」

「昨日奥様がお見えになって、あなた様名義の五千万円の生命保険に加入いただいたんですが、あなた様の生年月日を確認したいので、お電話を差しあげたわけです」

電話をききながら、酒井は、絶望に襲われた。生命保険会社はいくつもある。酒井がT生命を解約すれば、また別の会社と契約することだろう。際限きりがない。文江にしてみれば、酒井が死んだとき、彼が、どこかの生命保険に入っていればいいのだ。

(どうしたらいいのだろうか?)

酒井は、蒼い顔で考えこんだ。死にたくはない。

警察へ訴えても無駄だろう。回春連盟のことを話しても信じてはくれまい。妻が自分を殺そうとしているなどといったら、なおさらだ。文江は否定するに決まっているし、世間には、仲のいい夫婦で通っているからである。五千万円の生命保険にしても、大会社の部長なら、妥当な金額だといわれるだろうし、文江も同額の生命保険に入り、彼を受取人にしていては、生命保険は殺意の証明にはならない。

(いっそのこと、機先を制して文江を殺してしまおうか)

とも考えた。

彼女が死んでしまえば、もう自分が狙われることもなくなるし、五千万円の保険金が手に入るのだ。

だが、考えただけのことで、酒井には、自分がそんなことのできる人間でないことはよくわかっていた。そこまで冷酷になれるのなら、回春連盟の男がきたとき、迷わず、妻を消してくれと頼んでいたろう。それに、素人の酒井には、警察に捕まらないように文江を殺せる自信もなかった。

どうしていいかわからぬままに、酒井の心のなかで、不安だけが大きく広がっていったが、その不安が現実化し、危あやうく死にかける事件が起きたのである。

五日目の夜で、十二時をすぎていた。

その夜も、酒井は、不安をまぎらわせようと、いきつけのバーで飲み、タクシーで自宅近くまで帰った。彼の家は、狭い路地の奥にあるのだ。大通りでタクシーを降り、ぶらぶらとその通りを渡りかけたのだが、その時、猛烈なスピードで疾走してきた車にはねられたのである。

酒井は、コンクリートの地面に叩きつけられた。一瞬、死んだと思ったが、幸い、左腕と左足に擦すり傷きずを作っただけだった。

血が流れていたが、手足の痛みより、精神的なショックのほうが大きかった。

(今の車は、俺を殺そうとした──)

と、考えたとたん、膝ががくがくと震えだして止まらなくなってしまった。あの車を運転していたのは、きっと、回春連盟の人間に違いない。

ちょうど通りかかったパトカーが、道路にうずくまっている酒井を見て急停車し、若い警官が降りてきた。酒井は、思わず、その警官に向かって「助けてくれっ」と、叫んでしまった。

「私は殺されかけたんだ。犯人を捕まえてくれ」

「いったい何があったんです?」

「車に乗った男が、私を殺そうとしたんだ。高円寺の方角へ逃げていった。すぐ捕まえてくれ」

「殺そうとしたというのは、穏やかじゃありませんが、どういう意味ですか?」

「私は命を狙われているんだ。さっきの車の男は殺し屋で、私を殺そうとしたんだ」

「殺し屋ですか」

と、若い警官は、変な顔をしたが、それでも手帖を広げると、

「手配しますから、車の特徴をいってくれませんか」

「確か白のスカイラインGTだった。ナンバーは覚えてないな」

それでも、この時刻は車が少なかったせいで、問題の車は、十五分後に捕まった。

酒井は、近くの救急病院で手当てを受けたあと、運転していた男と警察署で会った。

二十五、六の若い男で、グラフィックデザイナーだというが、酒井のしらない顔だった。薄いサングラスをかけ、ふてくされた顔で酒井を睨んだ。

「あんたがいきなり、ふらふらと車道に飛び出してきたのがいけないんだ。自業自得だよ」

「君は私を殺す気だったんだ」

酒井がいうと、若者は「冗談じゃないぜ」と、口を尖らせた。

「どうして俺が、あんたを殺さなきゃならないんだ?見たこともないあんたをさ」

「君が回春連盟の人間だからだ。金のために私を殺す気でいるんだ」

「かい──何だって?」と、相手は首をひねってから、傍かたわらにいた警官に向かって、外人のように、大きく肩をすくめて見せた。

「ねえ。お巡りさん。この人、頭がおかしいんじゃないのかな」

若者は、治療費を払うと約束はしたが、回春連盟などまったくしらないといい張った。

警察も、酒井の話は信用してくれず、その男の身辺調査してくれる気配はなかった。

だが、酒井は、相手が否定すればするほど、回春連盟の一員に違いないと確信した。勧誘にきた藤本という男もいっていたではないか。車にはねられたりして死ぬようにしてみせると。

警察が調べてくれないならと、酒井は、私立探偵を雇うことにした。刑事あがりだというがっしりした体つきの探偵は、充分信用できそうに思えたのだが、三日目に、会社近くのレストランで会うと、

「どうやら、あなたの思い違いのようですね」

と、そっけない声でいった。

「それはどういうことかね?」

「グラフィックデザイナーの方ですが、酒を飲むと乱暴になるようですが、普段は大人しい青年です。若いが才能もあり、金に不自由はしていません。一匹狼の方で、どんな団体にも属していませんな。一歳年上の恋人がいて、同棲中です」

「回春連盟について何かわかったかね?」

「このほうも、何も出ませんね。回春連盟という団体は実在しないと思いますが」

「相手は殺し屋の集団なんだ。看板をかけて営業なんかしているものか。そのあたりも考えて調べてくれたのかね?」

「私は、この仕事をやる前、十五年間、刑事として働いていた男ですよ。裏街道のこともよくしっています。その私が調べて何も出てこないのですから、回春連盟などという妙な組織は、存在しないと思いますね」

「馬鹿をいっちゃいかん。現に私は、名刺をもらったし、その組織の男に会ってるんだ」

酒井は、いらだった。刑事あがりのこの探偵も、いっこうに頼りにならないではないか。

「家内のことは調べてくれたかね?」

「三日間、うちの事務所の者が尾行しましたが、その報告を読むと、奥さんは、妙な男にも会っていないし、挙動に不審な点もありません。離婚を要求できるような行動はありませんでしたよ」

「電話だ。家内は、回春連盟と電話で連絡をとっているんだ」

「そうだとすると、ちょっと調べようがありませんね」

役に立たない私立探偵だなと、酒井は腹が立ち、三日間の料金を払って、さっさと立ちあがった。

不安と不快さとが重なったせいか、この夜、酒井は、泥酔した。後輩の管理課長と飲んでいたのだが、梯子はしご酒をしているうちに、いつの間にか、ひとりになってしまった。

銀座から飲みだして、その時、新橋あたりの小さなバーにきているらしいことだけは、ぼんやりとわかっていた。いつもは、さして悪い酒ではないのだが、回春連盟のことがあって以来、悪酔いするようになっていた。管理課長が消えたのも、酒井が絡むのに辟へき易えきしたためかもしれない。

店は混んでいた。

突然、酒井の近くにいたジャンパー姿の若い男が「なんで、俺を睨むんだ?」と、ふいに絡んできた。酒井は気が弱いほうだし、腕力にも自信がなかったから、こんな時にはすぐ謝ってしまうか逃げ出してしまうかのどちらかなのだが、今夜はむしゃくしゃしていたから、酒井も睨み返した。

「なんだよ。俺に文句をつけようってのか?」

と、ジャンパー姿の男が酒井の胸のあたりを突いた。

「何をするんだ?」と、酒井もいい返した。

そのあと、尖った言葉のやりとりがあってから、相手の男は、いきなり酒井の腕を摑み、彼を店の裏の細い路地に連れこんだ。

薄暗い路地で、人の気配もなく、酒井は、急に怖くなった。

「おとしまえをつけてもらおうじゃねえか」

ジャンパー姿の男は、妙にすごんだ声を出し、ポケットからジャックナイフを取り出した。ばちっと音がして、ぴかりと光る刃先が飛び出した。

酒井は、震えあがった。酔いは完全に覚めてしまっている。

(こいつはひょっとすると、回春連盟の殺し屋かもしれないぞ)

そう思ったとたん、酒井は、われしらず「わあっ」と声をあげ、男を突き飛ばして逃げ出した。不意を突かれ、転倒しかけた男は、引きつった顔で手にしたジャックナイフを振り回した。

刃先が、酒井の右腕を引き裂いた。激痛に思わず悲鳴をあげた。

「助けてくれっ」

と、酒井は大声で叫び、その場にうずくまってしまった。

パトカーと救急車がきて、酒井は近くの病院に運ばれた。幸い傷は浅かったが、もし腹でも刺されていたら、間違いなくあの世にいっていただろう。

その夜は、病院のベッドですごすことになったが、午前二時頃になって、妻の文江があたふたと駆けつけてきた。

「大丈夫ですか?あなた」

と、心配そうにきくのへ、酒井は、包帯を巻いた右腕をなぜながら、

「僕が生きていたんで、がっかりしたんじゃないのか?」

と、皮肉をいった。

「なぜ、そんなことをおっしゃるの?心配して駆けつけたのに」

文江は、抗議するようにいったが、その顔は、心配している者の表情には見えなかった。

「わかってるんだ。僕が死んでいれば、君は五千万円の保険金をもらえるはずだったからな。当てが外れて、お気の毒だったね」

「S生命の保険は、あなたが解約なさったじゃありませんか」

「だが、そのあとすぐ、君はT生命と契約したはずだよ」

酒井がいうと、文江は、黙って俯いてしまい、しばらく気まずい沈黙が続いたあと、彼女は、そそくさと帰っていった。酒井は、その背に向かって「くそっ」と、心のなかで叫んだ。

「お前を喜ばせるために、簡単に殺されてたまるものか」

だが、腕が痛みだすと、闘争心は急激にしぼんでしまい、恐怖心だけが胸一杯に広がってきた。

ジャンパー姿の若い男も、回春連盟の殺し屋に決まっている。絡み方が異常だったし、酒を飲みにくるのにジャックナイフ持参というのは、明らかに、最初から酒井を殺す目的だったのだ。

たぶん、彼のあとをつけてきて、あのバーで喧嘩を売ってきたのだ。酔っ払い同士の喧嘩でついとなれば、たとえ捕まっても罪は軽いというのが、彼等の狙いなのだろう。

警察は、翌日、犯人を逮捕した。が、それを酒井にしらせにきてくれた刑事は、犯人は横浜に住む工員で、前に一度、バーで飲んでいてヤクザに脅され、金を巻きあげられたことがあるので、護身用にジャックナイフを持っていたと自供していると話した。

酒井は、そんな話は頭から信用しなかった。あの男は、私を殺すためにナイフを持っていたのだ。ほかに考えようがない。

「最近は、よくある手合いでしてね。ちょっといきがって見せるんですな」

と、ベテランの刑事は、笑って見せた。

「しかし、私を殺そうとしたんですよ」

「その点ですが、その男は、あなたにいきなり突き飛ばされたので、かっとなって思わず刺してしまったが、殺す気は最初からなかったといっています。あなたが彼を突き飛ばしたのは事実ですか?」

「夢中で突き飛ばしたんですよ。誰だって、ナイフを突きつけられればそうするでしょう?」

「そういう時は、両方怖いんですから動くと危険なんですよ。犯人も、あなたが怖かったといっています」

「そんな馬鹿な。あの男は、ある組織に属している殺し屋に決まっている。最初から私を殺すつもりだったんですよ」

酒井がいうと、刑事は、苦笑して、

「あの男は、ただの工員でどんな組織にも属していません。それはあなたの誤解ですよ」

「いや。回春連盟という殺し屋の仲間です。よく調べて下さい」

「回春連盟などという団体のことは初耳ですな。第一、殺し屋の組織などは、小説のなかだけのもので、実在しませんよ」

「それが実在するんです。私は、その回春連盟に狙われているんです。あの男は回春連盟から派遣された殺し屋です」

「どうも弱りましたな」と、刑事は、溜息をついた。

「犯人は一応調べてみましたが、東北生まれのただの工員です。前科もありません。それに、酔いが覚めてからは、あなたを刺したことを大変後悔しています。申しわけないことをしたと」

この刑事には、何もわかっていないのだと、酒井は唇をかんだ。

酒井は、腕に包帯を巻いたまま、会社に出るようになったが、仕事が手につかなかった。殺し屋が、次はどんな手を打ってくるかわからないと思うからである。ひょっとすると、会社のなかにも、殺し屋がもぐりこんでいるかもしれないと考えてしまう。ノイローゼ気味になり、部下から出された書類に決裁の判を押し忘れたり、部長会議でとんちんかんな発言をしたりするようになった。

見かねたのだろう。ある日、局長が彼を呼んで、

「四、五日、休暇を取りたまえ」

と、いたわるようにいった。

「君は働きすぎだ。目の下に隈ができてるじゃないか。いいから休暇をとって、のんびり静養したまえ」

いつもの酒井なら、意地でも休暇などとらないのだが、今度は、喜んで休ませてもらうことにした。しかし、休暇をとっても、家にごろごろしていては、会社にいる以上に危険だと思った。文江は、回春連盟に連絡するだろうし、彼女自身が、酒井を殺すかもしれないからである。

文江が、彼を五千万円の生命保険に入れて以来、毎日の食事までが怖くなっていた。文江の作る味噌汁に青酸カリが入っているかもしれないし、魚料理のなかにさりげなく河豚ふぐの肝が混ぜてあるかもしれないのだ。酒井の疑心暗鬼だけではなかった。

彼は毎朝、牛乳をあたためて飲むのだが、最近、どうも味が変なのである。最初は気のせいかと思っていたのだが、ある日、飼猫に与えたところ、いつも喜んで飛びつく猫が匂いを嗅いでから、ぷいと横を向いてしまったのだ。

「一週間ばかり、釣りにいってくるよ」

と、酒井は、文江にいった。

「釣りって、どこへいらっしゃるんです?」

「いつもの房総だよ」

と、酒井は噓をつき、釣り道具を持って家を出ると、房総とは反対の伊豆へ向かった。

伊豆半島西海岸のMという小さな漁村である。それでも、旅館が二軒あり、夏のシーズンには、民宿も盛んだという。

酒井は、海辺に近い旅館に入った。まだ六月のはじめだが、釣り客がかなりきている。

二階の部屋に入ると、すぐ下が、遠浅の浜で、絶好の投げ釣り場である。午後の西陽を受けて、五、六人の釣師がキス釣りを楽しんでいるのが見えた。円形の入江で波が静かなので、貸ボートで釣り糸をたれている人もある。

(今頃、文江の奴、回春連盟に電話して、俺が房総に釣りに出かけたと告げていることだろう)

そう考えると、酒井は、ざまあみろと思った。房総の勝かつ浦うらに彼のなじみの船宿があり、釣りといえばそこへいくことにしていたから、文江は彼の言葉を疑わなかったろう。

その夜、酒井は久しぶりに安心して熟睡した。

翌日、朝食をすませると、旅館に頼んで握り飯を作ってもらい、それを持って釣りに出かけた。

まだ午前九時だが、早くも投げ釣りの姿が砂浜に見える。酒井は、ちょっと考えてから貸ボートをかり、沖へ出てアジを釣ることにした。

ボートで入江のまんなかまで漕ぎ出し、そこで釣り糸をたれた。梅雨つゆの晴れ間に降り注ぐ陽光は、すでに夏の強さを示していたが、海水に手を入れてみると、さすがに海のほうは、まだ冷たかった。

ここには、彼を殺そうとする回春連盟の殺し屋はいないようだ。車もないし、きこえてくるのは、ボートの側面にぶつかるぴたぴたというさざ波の音だけである。

魚のほうは、五、六匹続けて釣れたあと、急にぴたりと食わなくなった。潮が変わったのだろうが、ここにきたのは釣り自体が目的ではなかったから、酒井はいらいらも感じないで、のんびりとボートの舟底に寝転んだ。海の上なら絶対安全だろう。目を閉じ、つい、うとうととしたとき、急に、低いエンジンの音がきこえた。

(何だろう?)

と、ボートの上に起きあがったが、その目に、猛スピードで近づいてくるモーターボートが飛びこんできた。とたんに、酒井の顔が真っ青になった。

(回春連盟の殺し屋は、ここにもきていたんだ)

モーターボートを運転しているのは、サングラスをかけた若い男だった。こっちを見てにやにや笑っている。あいつは、モーターボートをぶつける気だ。体当たりされたら、こんな木製のボートは粉々になってしまうだろう。そのショックで、酒井も間違いなくあの世いきだ。

酒井は、あわててボートの上に立ちあがった。ボートがぐらりと揺れた。

モーターボートは、真一文字に疾走してくる。

酒井は、釣り竿をほうり出して海に飛びこんだ。海水は冷たい。そのうえ、濡れたシャツやズボンが体にへばりついて泳ぎにくい。だが、殺されたら終わりだ。息をつめ、もぐったまま、少しでも遠くモーターボートから離れようとした。が、すぐ、息苦しくなって、ぽっかりと海面に顔を出してしまった。

モーターボートは、近くへきてエンジンを止めた。

サングラスの若い男は、長い棒を摑み、ボートの上に仁王立ちになって海面を見回していたが、酒井を見つけると、にやっと笑って、

「まだ泳ぐには早すぎるぜ。早くこの棒につかまれよ」

酒井は、そんな男の言葉を鵜呑みにしたりはしなかった。

あいつは、俺が安心して近づいたら、あの長い棒で叩き殺す気なのだ。誰がそんな罠にはまるものか。

酒井は逃げた。モーターボートとは反対の方向へ向かって。生憎なことに、そちらは岸辺とは反対の方向だったが、恐怖が一杯の酒井には判断がつかなくなっていた。

海水は、どんどん冷たくなっていく。手足が疲れて動かなくなり、胸が苦しくなってきた。やがて、意識がもうろうとしてきて──。

二十分後。砂浜に引き揚げられた遺体を前にして、モーターボートを運転していた東京の若者は、困惑した顔で駐在の巡査にいった。

「ちょっと驚かしてやろうと思って、モーターボートを近づけたら、いきなり海に飛びこんだんだ。あのあたりは水が冷たいからね。早くボートに引きあげてやろうとして棒を差し出したら、何を血迷ったのか、沖へ向かってどんどん泳いでいくのさ。こっちは驚いちまって、戻ってこいって怒鳴ったんだけど、その時には、ぶくぶく沈んじまったんだ。あわてて助けあげたんだけど、もう手遅れでね」

「この人のいうとおりですよ」と、浜辺で投げ釣りをしていた釣師のひとりが証言した。

「モーターボートが近づいたら、いきなり海に飛びこんだんですよ。変な人だなと思って眺めていたんですよ。この人が助けようとして、棒を差し出したのも見ました。そしたら、どうしたのか沖へ向かって泳ぎ出したんです。いったいどうしたんですかねえ」

「今日の暑さで、頭がおかしくなったんじゃありませんか」

と、無責任なことをいう釣師もいた。

駐在の巡査は、やれやれという顔で、遺体を見直した。かっぷくもいいし、分別盛りの年齢なのに、なぜ、常軌を逸したことをして死んでしまったのだろうか。

巡査は、屈かがみこみ、死者のポケットを探った。とにかく、気の毒な家族にしらせてやらなければならない。さぞ、なげき悲しむことだろう。

東京新橋の料亭で、文江は、恋人と乾杯した。文江は気持ちよく酔った。

「あなたの計画が、まんまと図に当たったわね」

「一種の心理作戦さ」と、男は、得意気に鼻をうごめかせた。

「君の旦だん那なは、気が弱く、一方では想像力がやたらに発達している。そこを利用して罠をかけたんだ。僕の予想していたとおり、回春連盟などというありもしない殺し屋グループに怯えて、勝手に死んでいったのさ」

「でも、あなたが回春連盟の名刺を持って主人に会いにいった時、私を殺してくれと頼まれてしまったらどうするつもりだったの?まさか、私を殺して主人からお金をもらう気じゃなかったでしょうね?」

「君の旦那の性格を分析して、頼まれるはずはないと踏んでいたのさ。ああいうエリート人間は、欲望だけは強いくせに、妙なヒューマニズムに縛られて人を殺せない人種だからね」

「主人が車にはねられたり、酔って刺されたりしたのは、本当に偶然だったの?」

「そうだとも。フランスの偉い哲学者がいってるけど、人間は危険があって恐怖を感じるというよりも、むしろ、恐怖から危険に落ちこむものなんだ。君の旦那は、一カ月以内に殺し屋に殺されるという恐怖に取りつかれていた。そうなると、周囲の人間が信用できなくなって、いつも尖った目つきになるし、恐怖を忘れようとして泥酔するようになる。自然に酔って喧嘩するようにもなるし、考えごとをして歩けば車にはねられる確率も高くなる。その確率に賭けたのさ。君だって、旦那を恐怖に追いこむのに、なかなかうまい芝居をしたよ。ミルクのなかには、いったい何を入れたんだ?」

「ニンニクの粉末。警察に怪しまれたら、主人に少しでも丈夫になってもらいたかったからというつもりだったのよ」

「そいつはいい」

男は、楽しそうに笑った。

「これで、五千万円は、私たちのものね」

「ああ。ただし、保険金は、少なくとも一週間ぐらいしてから請求したほうがいいな。旦那が死んですぐ請求すると、日本じゃ変な目で見られるからね」

「わかってるわ」

と、文江はいった。

正確に一週間たってから、文江は、亡くなった夫の生命保険を請求し、二日後、T生命本社へ出かけていった。

彼女は、丁重に応接室に通され、そこで待っていると、二人の男が入ってきた。

「私が当社の契約課長です」

と、蝶ネクタイをしたほうが、眼鏡の奥で優しく微笑しながら、自己紹介した。

「ご主人様はお気の毒でした。お悔やみ申しあげます」

「有難うございます」

文江は、しおらしく目をしばたたいて見せた。

「ところで、ご主人様の生命保険のことですが──」

「はい」

「その件に入る前に、こちらにいらっしゃる方をご紹介しておきましょう」

契約課長は、横にいる中肉中背の男に目をやって、

「警視庁の十津川刑事さんです」

「刑事さんが、なぜ──?」

文江は、一瞬顔色を変えた。が、夫の死について、疑われることは絶対にないのだと思い返して、平静な顔色に戻った。

十津川と呼ばれた刑事は、刑事にしては優しい笑顔で文江を見て、

「ちょっと妙な事件だと思って調べてみたのですよ。あなたは、回春連盟というのをご存じですか?」

「いえ。そんなものしりません」

「なるほどね。あなたは、ご主人を愛していらっしゃったんでしょうな?」

「ええ。もちろんですわ」と、文江は、力をこめていった。つまらないことで、警察に疑われたくはない。

「主人を心から愛していました。亡くなった今もです」

「そうでしょうな。ご主人のほうも、あなたを?」

「ええ。もちろん。どなたにきいて下さっても結構ですわ」

「仲のいい、幸福なご夫婦だったわけですな?」

「ええ」

「それでよくわかりました」

十津川刑事は、満足そうににっこりと笑った。何がわかったというのかと、文江は、うかがうように、

「何がですの?」

「ご主人がなぜ死んだかです。ご主人は、保険嫌いだったのに、最近になって急に、五千万円という高額の生命保険に加入された」

「私も同額の生命保険に入りましたわ。主人を受取人にして」

文江は、疑われるのが怖かったから、あわてていった。

十津川刑事は「わかっています」と、相変わらず、優しい微笑を口元に浮かべながらうなずいた。

「実は、保険嫌いのご主人が、なぜ急に高額の生命保険に加入したのか、その理由がわからなかったし、亡くなり方が妙なので当惑していたのですが、これですべて氷解しました。ご主人は心からあなたを愛されていた。だから五千万円の生命保険に加入したのだし、そう考えて、はじめて、不可解な死に方の謎も解けるのです」

「どういうことでしょうか?」

文江は、用心深く刑事の顔を見た。十津川刑事は「こういうことなのですよ」と、いった。

「ご主人は五十九歳でした。来年は定年で部長の椅子を退かなければならない。また、還暦も同時に迎えるわけです。人間はこういう時、これまでの人生を考えたり、愛する者のことを考えるものです。ところで、ご主人は、六年前に他の会社から引き抜かれてきたので、定年になっても退職金はたかがしれている。それに頼る子供さんもない。もうひとつ、ご主人は、あなたよりひと回りも年上でしたね。たぶん、ご主人は、自分が先に死んだ場合、あとにたったひとり残るあなたのことを心配されたんだと思いますね。だから、急に、五千万円の生命保険に入られたのです」

刑事の話が妙な方向に動いていくので、文江は、用心深く黙ってきいていた。十津川刑事は、言葉を続けて、

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